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ヒップホップダンスwiki(歴史[1980年]) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

1981年
1970年代後半にTBSラジオなどで放送されていたラジオ番組、スネークマンショーがこの年にリリースしたアルバム「スネークマンショー」に収録された『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』(小林克也・伊武雅刀)、及びコメディアンの山田邦子が発表した『邦子のかわい子ブリっ子〜バスガイド編』などが『Walk This Way』や『フラッシュダンス』以前の、オーバーグラウンドに現れたラップ的な表現の一例と思われる。但しこれらの作品がアメリカにおけるヒップホップシーンを意識して制作されたかどうかは定かではない。
1982年
映画『フラッシュダンス』が日本で公開され、劇中のわずか数分にヒップホップ4大要素の一つとなるブレイクダンス、ロックスティデイクルー(Rock Steady Crew)がストリートダンスを披露した。ストリートで踊るシーンに使われているJimmy Caster Bunchの曲『It's Just BE GUN』は世界的にミュージシャンからリスペクトされる。日本ではこれに影響された浜松のグループ「アップルパイオールスターズ」の大橋が早々とブレイクダンスを習得し、その後TOKYO B BOYSのCRAZY-A(現在B BOY PARK主催者)が日本におけるアンダーグラウンドのヒップホップを広めるべく活動を行っていた。
1983年
新宿ツバキハウスにおいて映画『ワイルド・スタイル』出演のクルーが開催したヒップホップ・ショーでは、DSTによるスクラッチのデモンストレーションやレクチャーが行われたといわれている。
1984年
佐野元春が、渡米中に制作したアルバム『VISITORS』において、冒頭の「COMPLICATION SHAKEDOWN」を含む数曲でラップを取り入れ、当時の音楽業界に大きな衝撃を与えた。これはメジャー系レーベル所属の日本人ミュージシャンとして初のラップと言われており、現在の国内ラップミュージシャンからも、大いにリスペクトを受けている。
映画『ブレイクダンス』公開。この映画や『ワイルド・スタイル』により、ブレイクダンスが日本全国に一大ムーブメントとして広がる。CRAZY-A、TOKYO B BOYSが原点とする原宿ホコ天(歩行者天国)では当時、 ナオヤ(TokyoB Boys、ZOO)、DJ KRUSH、MURO、BEAT、阿部ちゃん、グッチG、ホリエハルキ、ヨウヘイなど、現在著名のDJ、ダンサー、ラッパーが活動を行っていた。また新宿や六本木ではオウジ、サム(TRF)、横浜ではFLOOR MASTERS、村山タカシが活動していた。まさに空前のブレイクダンスブームであり、ラップやDJよりも、「踊れること」が尊ばれた時代であった。
そんな中、モンチ田中がテレビ番組などでDJプレイを紹介するなど、マスメディアにおけるDJ活動を活発化させていた他、風見しんごが歌った『涙のtake a chance』でブレイクダンスが採用されたことも特筆すべき事項である。
この当時、B-FreshのMCベルとケークKらが自主制作レーベルにて日本のラップシーンの先駆けとなる活動を行っていた。メンバーの中にはDJ KRUSH、MURO、DJ BEATなど、現在の日本を代表するアーティストが在籍していたことでも知られている。同様に活躍していたチームにJAP MC'S (初代メンバーはCRAZY-A、Keny(ホシナ)、Beat Master AZ(馬場)、KAZU(ZOO))などがある。



1985年
ジョージ・ヒコが米国Tommy Boy Recordsから12インチをリリースしたほか、モンチ田中を中心としたDJグループ「M.I.D.」が結成されるなど、シーンの基礎的な部分がさらに成長を進めていった年であるといえよう。また、いとうせいこうがアルバム「業界くん物語」にてラップに挑戦した。この年にリリースされた吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」を広義のラップに含むとする説もある。同曲のリミックスシングルが桑原茂一プロデュース、DJ KUDOらのグループ「ハードコアボーイズ」名義で製作され、日本初のリミックス作品となるが、何らかの理由で発売停止となった。
1986年
RUN-DMC がエアロスミスと共演した『Walk This Way』が全世界的なヒットを記録し、シーン全体に多大な影響を与えた。またPoppin Pete、Skeeter Rabbit、Boo Yaa Tribeが大阪に来日、大阪にもヒップホップシーンが形成していくきっかけを与えた。Popping Styleを伝授された愛弟子はワイルドチェリー、ユキ、シン兄弟、林田、オズ、テツなど。一方で東京では「HIPHOP」というクラブが渋谷にオープンし、DJ YUTAKAがレギュラーでプレイした。さらに、ラジオ番組「SCRATCH MIX」がFM横浜で始まるなど、多方面でシーンの広がりを垣間見ることが出来た年だと言える。これらとは別の動きとして、ビブラトーンズを解散した近田春夫がソロプロジェクトPresident BPMを立ち上げ、12インチ『Masscommunication Breakdown』をリリース。近田の活動は後にビブラストーンとなって結実する。また、いとうせいこう&TINNIE PUNX名義のアルバム『建設的』がリリースされたのもこの年。
1987年
ホコ天(原宿歩行者天国)では東京B-BOYSに代わり、ミスティックムーバーズ、B-ROCK CREW (チノ、コージ、百)等が活躍し、アフリカ・バンバータ来日ではステージ下でブレイクダンスバトルが繰り広げられた。一方、映画「星くず兄弟の伝説」でのコネクションを背景に高木完、藤原ヒロシがTINNIE PUNXを結成し、President BPMとのスプリット盤12インチをリリース。ECDがベスタクス主催のDJイベントにて優勝する。パブリック・エネミー等の多数のアーティストが来日。
1988年
インディーズレーベルMajor Forceが設立される。高木完、藤原ヒロシ、屋敷豪太などが参加していた。また、設立と同時にMajor Force主催のイベントDJ Underground Contestが開催される。優勝者はKRUSH POSSE、特別賞はスチャダラパー。このイベントにはChappy、B-Fresh 3、DS455、GAKU(後にEAST ENDを結成)などが参加していた。
1989年
ニュージャックスウィングというダンスが大流行する。これまでのブレイクダンスとは違い、ロジャーラビット、ランニングマン、ロボコップという名前がついたステップのダンスが流行し、この年、ダンス番組『DADA L.M.D』がスタート。初代メンバーはMr.T、タケダ、TACO、KAZU、ハルク、KAN、そして1990年代のニュースクールダンスをロサンゼルスから持ち帰り、毎週テレビで披露していたKAZU(STRUT)である。
また、KAZUとJJAY Yが日本人として初めて「ソウル・トレイン」に参加、ジェフリー・ダニエルのバックダンサーを務めた。彼らはZOOの初代メンバーであり、ニュースクールの先駆け的存在であった。その活動は「彼がいなければ現在のDJ KENBO、DJ WATARAIなどはいなかった」と言われるほどの存在感を示した。
一方、いとうせいこうがアルバム「MESS/AGE」をリリース。日本語によるオリジナルなラップや音楽スタイルがMCUやKOHEI JAPAN等、後に登場するアーティストに多大な影響を与えた。
さらに、ECD主催によるHIPHOPコンテスト「CHECK YOUR MIKE」がスタート。第一回目の優勝はZINGI。その他、BOY-KEN、TONEPAYS、キミドリなどを輩出。このコンテストは90年代中期頃まで行われており、DJ PMXからBY PHAR THE DOPESTまで、様々な才能を発掘した。
Rhymester、結成。


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